岸田国士の全作品
青空文庫で公開されている岸田国士の全作品を、おすすめ人気順で表示しています。
作品名 | 著者 | 読了時間 | 人気 |
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作品名 | 著者 | 読了時間 | 人気 |
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作品名 | 著者 | 読了時間 | 人気 |
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懸賞小説に寄せて | 岸田国士 | 5分以内 | |
従来の新聞小説を見ると、一定の型があると思ふ、この型は数々の経験者が、意識的に、或は無意識的に、創りあげた型である、この型の跡を踏むことは新聞小説を執筆する上で、読者受けもよし、新聞社の側にも満足のゆく型である、もしくはそれに近い。 | |||
著作者側の一私見 | 岸田国士 | 5分以内 | |
世間は、出版権と著作権とが飽くまで相反する利害の上に相争ふものであると誤認してゐるやうであるが、それは悪出版者と不良著作者との間に限ることで、寧ろ出版権法の精神は、対著作者の関係以上に、同業者間の職業的良心に訴ふべき性質のものであること、著作権法と同様である。 | |||
現代大衆劇は斯くして生れる | 岸田国士 | 5分以内 | |
新しき「新派」――現代大衆劇――がなぜ起らないかといへば、その第一の理由は、さういふものが現在の日本に欠けてゐることを、劇壇の人々は嘗て問題にせず、大衆も亦さういふ演劇への要求を示さずにゐるからでせう。 | |||
新劇の観客諸君へ | 岸田国士 | 10分以内 | |
私は、たしか去年の正月、某新聞の需めによつて、「劇壇へ」といふ一文を発表しました。 | |||
演劇的青春への釈明 | 岸田国士 | 5分以内 | |
本誌(「劇作」)四月号、山辺道夫氏の「演劇的青春」といふ評論を読んでみると、僕の名前が引合ひに出されてゐる。 | |||
『おふくろ』 | 岸田国士 | 5分以内 | |
本誌(「劇作」)三月号に発表された田中千禾夫君の処女作『おふくろ』について、僕として云ひたいことは、ただ一言で尽きる。 | |||
『十二月』 | 岸田国士 | 5分以内 | |
これは本誌(前同)四月号の頁をあらまし占領した小山祐士君の力作だ。 | |||
コクトオの『声』その他を聴く | 岸田国士 | 5分以内 | |
最近、仏蘭西版の新しい舞台のレコオドを幾枚か聴く機会を与へられた。 | |||
演劇の大衆性 | 岸田国士 | 30分以内 | |
文学に於ける大衆性といふ問題が云々される今日、私は私で、一つの意見をもつてゐないでもないが、直接その問題に対する興味からでなく、いはば現代に於けるわが演劇壇の危機に直面して、その道の人達が誰でも考へてゐる空漠とした打開策の上に、私一個の理論を打ち樹ててみようと思ふのである。 | |||
標題のつけ方 | 岸田国士 | 10分以内 | |
小説や戯曲の標題について、いろいろ知つてゐることを書けといふ註文で、これは恐らく試験ならば応用問題に属するのであらうが、私は、創作科の一学生として、今から与へられた枚数の答案を作つてみるつもりである。 | |||
空襲ドラマ | 岸田国士 | 5分以内 | |
先般放送局文芸課長久保田万太郎氏から、ラヂオ放送用の「空襲ドラマ」を書いてみないかと勧められ、少々面喰つたが、いろいろ考へた末、ひとつやつてみようといふ気になつた。 | |||
小劇場記念公演 | 岸田国士 | 5分以内 | |
シェイクスピイヤ作、坪内逍遥博士訳「ハムレット」五幕二十場の演出である。 | |||
新劇の自活 | 岸田国士 | 5分以内 | |
新劇といふ言葉も、可なり古くなつた。 | |||
新劇界の昨今 | 岸田国士 | 10分以内 | |
十年前(つまり震災直後)の新劇界は、戯曲の方面から見ても舞台の実際運動の方面から見ても、確かに華やかな時代であつたといへるが、その時代は新劇といふものは、まだ西洋劇あつての新劇であつた。 | |||
近代劇論 | 岸田国士 | 1時間〜 | |
近代劇とはこの名称は元来、あまりはつきりしない名称で、恐らく「近代」といふ言葉は、moderne の訳に相違なく、してみると、普通使はれてゐる「新時代」といふ意味もあると同時に、歴史上の「近世」を指すことにもなるのである。 | |||
周囲に聴く | 岸田国士 | 30分以内 | |
新劇を繞る論議近頃芝居に関する諸家の意見といふやうなものを瞥見すると、いろいろ興味のある問題が含まれてゐるやうである。 | |||
なんとかせねばならぬ | 岸田国士 | 30分以内 | |
僕はこの十年以来、芝居についての意見又は感想を書きつづけて来た。 | |||
現代劇のない日本 | 岸田国士 | 5分以内 | |
日本中の劇場で、これまで「現代劇」をやつたことがないと云へば、確かにそこ此処から異論が出るだらうと思ひますが、私は、それでも、「日本は現代劇なし」と明言します。 | |||
演劇・法律・文化 | 岸田国士 | 30分以内 | |
芸術家擁護の現行法「芸術」と「法律」とはそんなに縁の遠いものではないといふことを、私は近頃いろいろな機会に感じるのであるが、この両者の接近が、どうかすると、一国の精神文化の水準を示してゐるのではないかとさへ思はれることがある。 | |||
芝居と見物 | 岸田国士 | 5分以内 | |
現代日本の文化は、いろいろの部門に於て、もつと厳密な批判が加へられなければならぬと思ふが、私は、社会的に観て、最も時代の空気を反映すると考へられる演劇の立場から、この現状の憂ふべき傾向を指摘してみようと思ふ。 | |||
演劇当面の問題 | 岸田国士 | 30分以内 | |
戯曲不振の理由「戯曲家は生れながら戯曲家である」といふやうなことも云はれるが、しかしまた、戯曲家が戯曲家たる動機は、小説家が小説家たり、詩人が詩人たる動機と決して異つたものであるとは云へないのであつて、少くとも今日までの歴史を通じてみれば、多くの例が、その点について興味のある事実を語つてゐるのである。 | |||
稽古のしかた | 岸田国士 | 10分以内 | |
僕が先日都新聞に書いた感想のなかで、「新劇を面白くする」方法として、大ざつぱな個条をいくつか挙げた中に、「稽古は少くとも二ヶ月間ぶつ通しでやること」といふ一ヶ条がある。 | |||
女優リイヌ・ノロのこと | 岸田国士 | 5分以内 | |
最近 L'Assommoir といふ仏蘭西の発声映画を見る機会を得た。 | |||
戯曲の生命と演劇美 | 岸田国士 | 10分以内 | |
日本の新劇が、従来西洋の芝居をお手本として「新しい演劇美」を取り入れようとした事実は、今日誰でも知つてゐることであるが、西洋の芝居のどこが面白いかといふことになると、それは誰もはつきりしたことが云へず、結局、脚本の文学的価値と、「演出」なる特殊な技術にその重心をおいて、万事が解決されたものの如く考へてゐたのである。 | |||
“にんじん”を観て | 岸田国士 | 5分以内 | |
映画「にんじん」をみて、第一に感じたことは、監督デユヴイヴイエが、単にルナアルの小説及び戯曲からその主題を藉りたといふばかりでなく、ルナアル流の「文章的表現」を、映画のリズムによつて組立てやうと試みてゐることだ。 | |||
伊賀山精三君の『騒音』 | 岸田国士 | 5分以内 | |
伊賀山君の『騒音』を、最初読んで聞かされた時、僕は、いきなり、たうとう伊賀山君も、作家らしい作家になつたといふ気がし、この戯曲のもつ「真実性」が、単なる見せかけのものでないことを信じたのである。 | |||
言葉の魅力[第一稿] | 岸田国士 | 30分以内 | |
「言葉」といふものは、単に思想や感情を伝へる記号として、日常生活に欠くべからざるものであるばかりでなく、ある一人の使ふ「言葉」は、万人共通の意味をもつと同時に、その人に「固有にあるもの」を現はしてゐるのであつて、この点から見れば、それは人間の「表情」に近いものである。 | |||
言葉の魅力 | 岸田国士 | 10分以内 | |
言葉といふものは、書かれる場合と話される場合とで、余程性質が違つて来るものである。 | |||
翻訳劇と翻案劇 | 岸田国士 | 10分以内 | |
翻訳劇といふ名称を私は好まぬ。 | |||
通俗性・大衆性・普遍性 | 岸田国士 | 10分以内 | |
演劇に限らず、芸術作品の通俗性とか大衆性とかが問題になつてゐる。 | |||
演劇本質論の整理 | 岸田国士 | 30分以内 | |
一、弁明本誌(新潮)八月号に発表された岩田豊雄氏の文章「演劇本質論の検討」を読んで、僕はいろいろのことを感じた。 | |||
癇癪批評 | 岸田国士 | 5分以内 | |
僕のところの子供は、父親たる僕に話しかける時は、はじめから癇癪を起してゐる。 | |||
危機を救ふもの | 岸田国士 | 5分以内 | |
無力な新劇団が乱立し、互に仕事の邪魔をし合つてゐるといふ状態も決して悦ぶべき状態ではないが、それが新劇直接の病根だとは、僕は思はぬ。 | |||
日本の新劇 | 岸田国士 | 30分以内 | |
現在いろいろな場合に新劇といふ言葉が使はれてをりますが、先日もある機会に、「新劇」とはなんぞやといふ質問が出ましたのに、この答へを当然用意してゐなければならない人々が、実はお互に顔を見合せて苦笑をした次第であります。 | |||
新劇倶楽部創立に際して | 岸田国士 | 30分以内 | |
非常に漠然とした提議の内容でありましたが、それにも拘はらず大体の趣旨に御賛成の上でありませう、今日、わざわざここへお集り下さいましたことは、私として感謝にたへません。 | |||
映画の演劇性 | 岸田国士 | 5分以内 | |
演劇をどう定義づけるかにもよるが、私の考へる演劇の本質といふものからみれば、現在の発声映画は、その魅力の一半を演劇的なるものに負つてゐるやうに思ふ。 | |||
新劇の拓く道 | 岸田国士 | 5分以内 | |
去年の半ば頃から生れて来た所謂新劇の大同団結運動といふのは、簡単にいふならば、それぞれに少数にすぎない熟練的技術者を擁して、一つの劇団としては十分に客を惹く力に乏しいところから、寧ろ各劇団の優秀な技術者を引抜いて、それで一つの劇団を拵へて、十分職業的に自活し得るものにして行きたいといふのがその趣旨であつた。 | |||
日記について | 岸田国士 | 10分以内 | |
私は日記をつけない。 | |||
翻訳について | 岸田国士 | 5分以内 | |
翻訳といふ仕事は、いろいろ理窟のつけ方もあるだらうが、大体に於て、翻訳者自身のためにする仕事なのである。 | |||
共同の目標 | 岸田国士 | 5分以内 | |
日本新劇倶楽部が生れた。 | |||
演劇論の一方向 | 岸田国士 | 30分以内 | |
凡そ、如何なる芸術と雖も、若干の「法則」に従はないものはない。 | |||
チロルの古城にて | 岸田国士 | 5分以内 | |
ベルサイユの講和条約に、国境劃定委員会が出来て、その一分科である墺伊両国間の国境劃定に日本からも委員を出すことゝなつて服部兵次郎少将(当時中佐)が任命され、私は通訳として随行した。 | |||
シュアレスの「三人」(宮崎嶺雄君訳) | 岸田国士 | 5分以内 | |
私は嘗て、シュアレスを知るために、そして同時に、フランス人の観たイプセンなるものを注意するために、この『Trois Hommes』を読んだ。 | |||
新劇の始末 | 岸田国士 | 30分以内 | |
新劇とは?「新劇」といふ言葉は最初誰がどういふ意味で使ひ出したか知らぬが、「新しい芝居」といふことを漢語で云つたまでで、専門的な術語と見做すわけに行かぬと思ふ。 | |||
小山祐士君の『瀬戸内海の子供ら』 | 岸田国士 | 5分以内 | |
小山君の戯曲家としての成長は、その階梯が極めて劃然とし、『翻るリボン』から、『十二月』、それからこの『瀬戸内海の子供ら』に至る最近の三作を通じて、見事な飛躍をなし、遂に、同君の今日の境地に於て、恐らく完璧ともいふべき表現に到達し得たといふことは、芸術修業の道にあるものが、等しく羨望に堪へぬところである。 | |||
「思はざる収穫」について | 岸田国士 | 5分以内 | |
私の敬愛する先輩、内藤濯氏の近著「思はざる収穫」について何か書けといふ本紙編輯者の命である。 | |||
「せりふ」について | 岸田国士 | 5分以内 | |
舞台に於ける俳優の「白」については、今いろいろ考へてゐることもあるが、戯曲としての「対話」といふやうなことは、もう自分で意識することも厭になつてゐるので、わざわざ理窟をつける気がしない。 | |||
わが演劇文化の水準 | 岸田国士 | 10分以内 | |
アカデミイなき悲哀現代日本の各種文化部門を通じて、最も混沌たる状態を示してゐるのは、人々によつて多少見るところも違ふであらうが、恐らく、明治維新の一転機にも拘らず、かの封建的伝統を最も執拗に、かつ濃厚に継承し来たつて、これに代るべき新時代の要求を未だ明確に反映し得ない、ある若干の部門に限られてゐるやうである。 | |||
新築地劇団に望む | 岸田国士 | 5分以内 | |
人各々その畑ありで、僕は自分の仕事を自分に適した範囲でやらうと思つてゐるが、また一方「新劇」といふ一般の立場から、それぞれの偏向を超越して、共通の問題を問題とすることも亦、自分に課せられた役目の一つだと思つてゐる。 | |||
中野重治氏に答ふ | 岸田国士 | 5分以内 | |
一、役者が批評家と公然の舞台で議論するやうになることは、特にいいこととも考へられませんが、自分の主張を、役者なるが故に、堂々と発表できないといふ習慣は、勿論、排撃すべきでありませう。 |