喜田貞吉の全作品
青空文庫で公開されている喜田貞吉の全作品を、おすすめ人気順で表示しています。
1-50件 / 全62件
| 作品名 | 著者 | 読了時間 | 人気 |
|---|---|---|---|
| エタ源流考 | 喜田貞吉 | 1時間〜 | |
1 緒言 往時「エタ」と呼ばれておった不幸なる人々は、本来いかなる性質のものか、またいかなる事情からかくの如き気の毒なる境遇に落ちたか。 | |||
| 特殊部落と通婚問題 | 喜田貞吉 | 5分以内 | |
旧幕時代には、エタ非人と普通民との通婚は、国法の禁ずるところであった。 | |||
| エタと非人と普通人 | 喜田貞吉 | 10分以内 | |
踏み出しの方向如何によって、一歩の差は遂に千里の差となる。 | |||
| 震災日誌 | 喜田貞吉 | 60分以内 | |
大正十二年九月一日関東地方に起った大地震は、未曾有の大災害を東京・横浜その他の都邑に及ぼした。 | |||
| 石上神宮の神宝七枝刀 | 喜田貞吉 | 10分以内 | |
昨秋〔(大正七年)〕十月大和に遊び、石上神宮に参拝して、有名なる神宝六叉鉾と称する異形の古武器を拝観することを得た。 | |||
| 特殊部落の言語 | 喜田貞吉 | 10分以内 | |
特殊部落の人達の口にする言語は、その付近の普通部落の言語と幾らか違ったところがある。 | |||
| 奥州における御館藤原氏 | 喜田貞吉 | 60分以内 | |
一 緒言 余輩は前号において征夷大将軍の名義について管見を披瀝し、平安朝において久しく補任の中絶しておったこの軍職が、源頼朝によって始めて再興せられたものである事情を明かにし、その以前に木曾義仲がすでに征夷大将軍に任ぜられたとの古書の記事があり、それが古来一般に歴史家によって認められているとはいえ、その実義仲の任ぜられたのは頼朝討伐のための征東大将軍であって、征夷ではなく、また内容からも征夷大 | |||
| 安達ヶ原の鬼婆々(余白録) | 喜田貞吉 | 5分以内 | |
去る五月の中旬、大和の榛原町に行つた時、同町字足立といふ部落が、鬼筋だといふ説について、土地の人に尋ねて見たところが、昔こゝに安達ヶ原の鬼婆々が居つたといふ話があると教へてくれた。 | |||
| 蝦夷とコロボツクルとの異同を論ず | 喜田貞吉 | 60分以内 | |
我が群島國の先住種族中、石器を使用して、其遺蹟を後世に遺せるものは何なりやとの疑問に對して解决を與ふる諸説の中、最も多數なるは、之を蝦夷なりとするものと、之を蝦夷とは別種なるコロボツクルなりとするものとの兩説なり。 | |||
| 武士を夷ということの考 | 喜田貞吉 | 60分以内 | |
一 緒言 国史地理学上、本邦の種族調査の一部として、さきに「夷俘・俘囚の考」と「東人考」とを発表したる余輩の研究は、ここに中世において武士を夷と称したることの理由を説明すべき順序となれり。 | |||
| 「特殊部落」と云う名称について | 喜田貞吉 | 30分以内 | |
本編は上掲諸編の記事と重複するところことに多きを校正の際心付きしも、今さら改むる能わず。 | |||
| 特殊部落の人口増殖 | 喜田貞吉 | 30分以内 | |
1 特殊部落人口増殖の事実 我が国には古え天益人の語があって、人口が日々増加しつつあることは、太古以来既に認められておった。 | |||
| 「鐵」の字の古体と古代の文化 | 喜田貞吉 | 5分以内 | |
「鐵」の字古く「銕」また「※[#「金+截」、U+496B、262-2]」に作る。 | |||
| 日本における史前時代の歴史研究について | 喜田貞吉 | 30分以内 | |
闇の夜に、鳴かぬ烏の声聞けば、生れぬ先の父ぞ恋しきということがある。 | |||
| 特殊部落と寺院 | 喜田貞吉 | 30分以内 | |
部落民は一般に仏法に対して最も熱烈なる信仰を有している。 | |||
| 沙門と屠児 | 喜田貞吉 | 5分以内 | |
三善清行の「意見封事」に、延喜頃の人民が課役を避けんが為に出家して、天下の民三分の二は皆禿首というの状態となり、しかも彼らは貌も沙門の如く、心は屠児に似たりとある。 | |||
| 「あばた」も「えくぼ」、「えくぼ」も「あばた」 | 喜田貞吉 | 30分以内 | |
惚れた目から見れば痘痕も笑窪に見えるという諺があるが、反対に、いやと思う眼から観れば笑窪も時に痘痕に見えようというもの。 | |||
| 長吏名称考 | 喜田貞吉 | 10分以内 | |
エタをチョウリという地方が多い。 | |||
| 本州における蝦夷の末路 | 喜田貞吉 | 60分以内 | |
本編は去る七月十一、十二の両日にわたって、仙台放送局の需めに応じて放送したところであります。 | |||
| 国号の由来 | 喜田貞吉 | 60分以内 | |
一 緒言 昭和九年初頭の第六十五回帝国議会において、頭山満氏ほか数氏の名を以て、国号制定に関する請願なるものが提出せられた。 | |||
| 融和問題に関する歴史的考察 | 喜田貞吉 | 1時間〜 | |
この小冊子は昨年「融和促進」を発行しました際の予約に基づいて、もっぱらいわゆる特殊部落の由来変遷を述べたものであります。 | |||
| 震災後記 | 喜田貞吉 | 60分以内 | |
九月一日来の関東の大震については、自分の親しく見聞関知したところをいささか書きとめて、その混乱の最も烈しかった六日までの分を「震災日誌」と題して『社会史研究』拾壱月号〔(第一〇巻第三号)〕に掲載したのであったが、七日以後にもかなりひどい余震が繰り返され、世間はそわそわとして震災気分は相変らず濃厚だ。 | |||
| オシラ神に関する二三の臆説 | 喜田貞吉 | 30分以内 | |
一 はしがき 東北文化の研究については、土俗上、信仰上、見のがすことのできないものの一つにオシラ神がある。 | |||
| サンカ者名義考 | 喜田貞吉 | 30分以内 | |
京都あたりでは一種の浮浪民を、サンカまたはサンカモノと呼んでいる。 | |||
| 「エタ」名義考 | 喜田貞吉 | 30分以内 | |
1 「穢多」という文字の使用 同じ日本の国土に生を営む一部の人民に対して、「穢多」という極めて同情のない文字を用い始めたのは、いつの頃、何人の仕業であるか、思えば罪の深い事をしたものである。 | |||
| 奥羽北部の石器時代文化における古代シナ文化の影響について | 喜田貞吉 | 30分以内 | |
昨年〔(大正一五年)〕一月発行の本誌〔(『民族』)〕第一巻第二号において、自分は柳田〔(国男)〕君の促しによって、「奥羽地方のアイヌ族の大陸交通はすでに先秦時代にあるか」という標題のはなはだ長たらしい、しかも内容のきわめて貧弱な一小篇〔(前章)〕を掲載して戴いたことであった。 | |||
| 『切支丹と旧エタ』について | 喜田貞吉 | 5分以内 | |
本誌第一巻六号に「切支丹と旧穢多」と題して、榊原君の長崎からの通信を掲げたところが、東京中野局消印で「浦部きよし」という方から、「浦上村民は穢多ではない」との投書があった。 | |||
| 八坂瓊之曲玉考 | 喜田貞吉 | 60分以内 | |
一 緒言 昭和三年七月発行関西考古会の機関雑誌『考古』第三号において、余輩は未熟なる「曲玉考」一篇を発表して管見を学界に問うたことがあった。 | |||
| 旃陀羅考 | 喜田貞吉 | 60分以内 | |
1 緒言 日蓮宗の宗祖日蓮聖人はエタの子なりという説がある。 | |||
| 遺物・遺蹟と歴史研究 | 喜田貞吉 | 30分以内 | |
過去の住民たるわれらの祖先が遺した遺物・遺蹟が、過去におけるわれらの祖先の生活状態を明かにし、その変遷発達の蹟を示すうえにおいて、最も有益なる材料なるべきは言うまでもない。 | |||
| 間人考 | 喜田貞吉 | 60分以内 | |
一 はしがき 我が古代の社会組織の上に「間人」という一階級があった。 | |||
| 〔喜田申す〕 | 喜田貞吉 | 5分以内 | |
喜田申す、中山君の早速の御投稿を感謝致します。 | |||
| 周防石城山神籠石探検記 | 喜田貞吉 | 30分以内 | |
明治四十二年十二月三十日、世間では年末だ師走だと餅搗きやら懸取りやらに忙しく騒いでいる中を東京帝国大学の嘱によって石城山神籠石探検の為に登山した。 | |||
| 「日本民族」とは何ぞや | 喜田貞吉 | 30分以内 | |
本誌の創刊に際して、余輩の常に使用するに慣れたる「日本民族」なる語が、本来何を意味するか、「日本民族」とは本来いかなるものなるかを説明して、あらかじめ読者諸賢の理会を請うは、余輩が本誌を利用してその研究を進める上に、最も必要なる事と信ずる。 | |||
| 「ケット」と「マット」 | 喜田貞吉 | 30分以内 | |
一 緒言 僻陬の地に先住民族がながく取り遺されるという事は、今さら事新しく言うまでもないところで、現に台湾東部の山地には、近くその実際を見るのである。 | |||
| 奥羽地方のシシ踊りと鹿供養 | 喜田貞吉 | 30分以内 | |
一 緒言 奥羽地方には各地にシシ踊りと呼ばるる一種の民間舞踊がある。 | |||
| 火葬と大蔵 | 喜田貞吉 | 30分以内 | |
一 火葬の初めという事 続日本紀に、文武天皇四年飛鳥元興寺の僧道照和尚遷化してその屍を焼いたのが、我が国火葬の初めだとある。 | |||
| くぐつ名義考 | 喜田貞吉 | 60分以内 | |
一 緒言 自分は昨年一月の本誌神祇祭祀号において少彦名命の研究を発表した中に、説たまたま谷蟆の事から、引いてクグツ(傀儡)の名義にまで一寸及んだ事であった。 | |||
| 国栖の名義 | 喜田貞吉 | 10分以内 | |
大和吉野の山中に国栖という一種の異俗の人民が居た。 | |||
| 時勢と道徳観念 | 喜田貞吉 | 5分以内 | |
虎関の作と云い、玄慧の作とも言われる異制庭訓往来に、 賊に大小あり、小罪既に大罪よりも軽し。 | |||
| 炭焼長者譚 | 喜田貞吉 | 30分以内 | |
一 緒言 東京朝日新聞の初刷に客員柳田國男君の炭焼長者譚という面白い読物の第一回が出ていた。 | |||
| 憑き物系統に関する民族的研究 | 喜田貞吉 | 60分以内 | |
一 序論――術道の世襲と憑き物系統 ここに憑き物系統とは、俗に狐持・犬神筋などと言われる所謂「物持筋」の事である。 | |||
| 手長と足長 | 喜田貞吉 | 30分以内 | |
三才図会に長脚国・長臂国がある。 | |||
| 道鏡皇胤論について | 喜田貞吉 | 30分以内 | |
一 序言 野人かつて「道鏡皇胤論」一編を京大史学会の雑誌史林の誌上で発表した事があった。 | |||
| 人身御供と人柱 | 喜田貞吉 | 30分以内 | |
宮城二重櫓の下から白骨や古銭が出たので、やれ人柱だの、墓地であったのだろうだの、工事の際の傷死人を埋めたのであろうだのと、いろいろの説がある様だ。 | |||
| 法隆寺再建非再建論の回顧 | 喜田貞吉 | 1時間〜 | |
一 はしがき 余輩が明治三十八年五月を以て、所謂法隆寺再建論を学界に発表してから、早くも三十年の星霜が流れた。 | |||
| 春雪の出羽路の三日 | 喜田貞吉 | 60分以内 | |
思いのほかの雪中旅行 昨年十一月に始めて出羽の踏査に着手したその続きを、この春の休暇中にやってみたいと思っている折から、山形県史蹟名勝天然記念物調査委員会の開会式が行われるので、やって来ぬかと理事官の有吉君から言って来られた。 | |||
| エタに対する圧迫の沿革 | 喜田貞吉 | 30分以内 | |
1 エタに対する甚だしい圧迫の事実 名称廃止以前のエタに対する幕府その他諸藩当路者の発した布告法令の文を見ると、その圧迫の甚だしかった状態は、実に悪寒戦慄を覚えしむるものがある。 | |||
| 特殊部落の成立沿革を略叙してその解放に及ぶ | 喜田貞吉 | 1時間〜 | |
1 緒言 私はただ今添田地方局長から御紹介になりました喜田貞吉でございます。 | |||
| 特殊部落と細民部落・密集部落 | 喜田貞吉 | 10分以内 | |
従来普通に特殊部落と云っておった我が同胞中の或る部族のことを、近ごろ内務省あたりでは、細民部落といっている。 | |||
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