豊島与志雄の全作品

喧騒の都市上海の目貫の場所にも、思わぬところに閑静な一隅がある。

爪の先を、鑢で丹念にみがきながら、山口専次郎は快心の微笑を浮かべた。

終戦の年の暮、父の正吉が肺炎であっけなく他界した後、山川正太郎は、私生活のなかに閉じこもりました。

佐伯八重子は、戦争中、息子の梧郎が動員されましてから、その兵営に、二回ほど、面会に行きました。

東京近くの、或る大きな河の彎曲部に、渡舟場がありました。

終戦後、柴田巳之助は公職を去り、自宅に籠りがちな日々を送りました。

今年二十四歳になる中山敏子には、終戦後二回ほど、縁談がありました。

さほど高くない崖の下に、池がありました。

波多野洋介が大陸から帰って来たのは、終戦後、年を越して、四月の初めだった。

終戦後、その秋から翌年へかけて、檜山啓三は荒れている、というのが知人間の定評でありました。

草光保治は、戦時中に動員されて外地へ渡り、終戦後復員されて、二ヶ年半ぶりに［＃「二ヶ年半ぶりに」は底本では「二ヶ月半ぶりに」］東京へ戻ってきました。

住居から谷一つ距てた高台の向う裾を走る省線電車まで、徒歩で約二十分ばかりの距離を、三十分ほどもかけてゆっくりと、岸本省平は毎日歩きました。

雷が近くに落ちたからといって、人の心は俄に変るものではありますまい。

仁木三十郎が間借りしていた家は、空襲中に焼け残った一群の住宅地の出外れにありました。

椰子の実を灯籠風にくりぬいたのへぽつりと灯火をつけてる、小さな酒場「五郎」に名物が一つ出来た。

ソファーにもたれてとろとろと居眠った瞬間に、木原宇一は夢をみました。

もともと、おれは北川さんとは何の縁故もない。

明るいというのではなく、ただ赤いという色感だけの、朝焼けだ。

桃代の肉体は、布団の中に融けこんでいるようだった。

深々と、然し霧のように軽く、闇のたれこめている夜……月の光りは固よりなく、星の光りも定かならず、晴曇さえも分からず、そよとの風もなく、木々の葉もみなうなだれ眠っている……そういう真夜中に、はっきりと人の気配のすることがある。

東京空襲の末期に、笠井直吉は罹災して、所有物を殆んど焼かれてしまいました上、顔面から頭部へかけて大火傷をしました。

検察当局は私を、殺人罪もしくは自殺幇助罪に問おうとしている。

政代の眼は、なにかふとしたきっかけで、深い陰を宿すことがあった。

千代は少し白痴なのだ。

悲しみにこそ生きむ楽しさにこそ死なむこの二つの文句が、どうしてこんなにわたしの心を乱すのであろうか。

一本のヘヤーピン、ではない、ただヘヤーピン一本、そのことだけがすっきりと、俺の心に残ったのは、何故であろうか。

すぐ近くの、お寺の庭に、四五本の大きな銀杏樹がそびえ立っている。

病院の裏手に、狭い急な坂がある。

十月の半ばをちょっと過ぎたばかりで、湖水をかこむ彼方の山々の峯には、仄白く見えるほどに雪が降った。

焼跡の中に、土蔵が一つある。

もう長い間の旅である――と、またもふと彼女は思う、四十年の過去をふり返って見ると茫として眼がかすむ。

本書の性質を一言しておく。

茲に収められてるものは、都会の知識階級のおかしな物語である。

戦乱の期間中、私は幾度か中華民国に旅して、おもに上海に滞留した。

終戦後私は、普通の小説を少しく書き、近代説話と自称する小説を多く書いた。

ここに収めた作品はみな、近代説話として書いたものばかりである。

本書に収められてる六つの小説は、みな、「近代伝説」として書かれたものである。

短篇集を一冊まとめるについて、作品をあれこれ物色してるうちに、つい、近作ばかり集める結果となってしまった。

本書に収められてる文章は、大正十四年から昭和八年までの間に、折にふれて書かれたものである。

本書に収められてるものは、私が書いたすべての随筆や感想の中から選択されたものである。

感想や随筆の類は、折にふれて書いてるようでいて、いざ一冊の書物にまとめるとなると、わりに分量が少いものである。

「レ・ミゼラブル」の翻訳を私が仕上げたのは、ずいぶん以前のことである。